María Pagés XXI Festival de Jerez

(07)スペイン

へレス・フェスティバルの公演7日目は、マリア・パヘスでした。

 

 

私はこのところ踊りを習う上で、あまり癖がなく、オーソドックスなフラメンコを教えてくれる先生に習いたいと思うようになりました。

振付に余計な飾りが多かったり、歌を楽しむ余裕のない振付をする先生のレッスンは取らなくなりました。

色々なエスティーロの先生に習いましたが、味付けが強烈で、印象的で、故に、見る分には魅力的なのけど、その人だからいいのであって、それを教えてもらったところで自分の味にはならないんじゃないかしら?1年、2年、5年と習えば、自分の身につくかもしれないけど、1週間程度のクルシージョだったら、ちょっと無理じゃないかしら?って人は、習うのではなく、見て楽しむ人なんだって結論に至りました。

色々と模索する中で、また考えは変わるかもしれないので、今のところの結論です。

 

私が知らないだけかもしれないけど、マリア・パヘスは、一般の練習生にレッスンを付けるというのを聞いたことがない。

へレス・フェスティバルで何度も公演は見たことがあるけど、彼女のクラスがあるって告知は見たことがない。

だから、習う機会はないのだけど、機会があったところで習わない気がする。

なぜなら、彼女だから許されるってものが、ものすごく多い。

オリジナル色がこれだけ強い人だから、踊り手としては成功だと思う。

でも、私が習い、それも1週間程度、彼女の味付けの表面的なところだけさらっても、何も残らない。

マリア・パヘスは、私にそう感じさせる踊り手です。

 

彼女の舞台は、いつも美しい。

彼女の美しさは、どうやったら引き立つかを知り尽くしていて、それを惜しみなく、てらいもなくググッと前面に押し出してくる。

ちょっと小柄なおデブちゃんのコケティッシュな可愛さは、万人に愛され、微笑みを誘う。

例えば、パストーラ・ガルバン。

あそこまで、コケティッシュさを出せるってすごいと思うのだけど、マリア・パヘスはその逆を行く。

「私、綺麗でしょ」って踊りをし、本当に綺麗だから、見ていると溜息が出るほど、うっとりする。

普通にこれだけ美しさを強調することをしたら、やっかまれることが多いんじゃなかと思うけど、マリアはどどどん!と強調してくる。

長身でスレンダーで、その上、旦那様はどうやらお金持ちらしく、超セレブなマリア・パヘスは、やっかまれる位置を通り越していて、憧れの領域にいる。

突き抜けてる。

あそこまで綺麗な自分を出せる人って天晴。

私にはそう見える。

なんだろう、あの気風の良さは。

彼女の踊りのエスティーロは習ったり、見て盗んだりしようとは思わない。

けど、彼女の舞台の作り方、自分の魅せ方はすごく勉強になる。

 

ラ・モネタ、パトリシア・ゲレーロ、オルガ・ペリセみたいに、若くて小柄故に身体も良く動き、足もすごい踊り手の公演をフェスティバルの最初の方で見て、それはそれですごいと思った。

若さ故の活気があり、小柄な人故の鋭敏さがあった。

けど、マリア・パヘスはどうやら50代らしい。

50代でこんなにも踊れるものなのだろうかと驚く。

確かに、サパテアードはほとんどしていない。

バタ、パリージョ、アバニコ、マントンなどの小物を使ったり、衣装の美しさで見せる踊りをする。

若い子と同じように踊らず、彼女ならではの長所を前面に出す振付、構成をする戦略をとってる。

賢い。

 

私も生徒に振付する時は、その人にとって無理のない振りを付けるようにしている。

〇その人にとって余裕をもって踊れる難易度の低い振付。

〇その人にとって余裕なんて、とても持てない難易度の高い振付。

さて、どちらの方がその人を上手に見せてくれるでしょう。

難しい振りを踊ったら上手く見えるって考えるのは間違いだ。

難しい振りを踊っても、余裕で踊れる実力のある人が踊るから、上手く見えるだけ。

その振りを通して踊るのがやっとの状態では、難易度の高い振付は自分を良く見せる武器ではなく、自分をみっともなく見せる凶器になる。

逆に、その人が余裕で踊れる難易度の振付は、余裕ある分だけ音楽に乗るとか、表現するとかができて、いい踊りをさせてくれる。

踊ってる本人だけが気づかない。

難しい振りを踊っていれば、上手く見えて、かっこいいと勘違いする。

そして、難しい振りを通せただけで充実感を得る。

けれども、見ている人は本人にはなかなかその事実は伝えない。

だから、気付きにくい。

「難しい振付を覚え、なんとか通して踊れるようになりました」ってのを披露する為に舞台で踊るのではない。

振付は、四苦八苦している姿を舞台で披露する為に存在しない。

振付は何かを伝えるツールでしかない。

なのにそのツールに振り回され、

「うわぁ、大変そうだな」

って感想しか持たれないような踊りを踊っては、何の為に舞台に上がるのかわからない。

 

マリア・パヘスは、自分にとっての他の人より劣るものは捨てたように見える。

モネタ、パトリシア、オルガの時には、女子ながらにもサパテアードがバンバン出てきたけど、マリア・パヘスはほとんどサパテアードをしない。

できなくはないと思う。

けれども、それを得意とする人程には、男性ほどには、若い子ほどには、それを自分の持ち味とする程ではないのかと思われる。

激しく熱いサパテアードがあると盛り上がるフラメンコにおいて、彼女はそれを捨て、代わりに自分の持ち味を全面に出し、彼女の魅惑的な舞台を作り上げる。

 

こういうフラメンコがあってもいい。

てか、こういうフラメンコ、すごく素敵で好きだ。

これも、私の好きなフラメンコの一つ。

 

そうそう、今日、真佑子先生のクラスのガロティンのエスコビージャの振りを考え、真佑子先生に録画してもらいました。

4月からガロティンを始めるクラスが「ゆっくり初級クラス」なので、これまでの「初級クラス」が踊ってたガロティンよりも、難易度をぐんと下げました。

サパテアードの難しさに四苦八苦し、その四苦八苦している無様な様を舞台で披露し、踊る楽しさを味わうことも、フラメンコの歌や音楽に身を任せることもできなかったら、意味ない。

振付は、踊り手を素敵に見せる為のもの。

難しい振りが踊り手を傷つけるのであれば、やらないでもいい。

簡単な振りが踊り手の良さを引き出してくれるのであれば、そっちの方がいい。

マリア・パヘスの公演は、サパテアードがいっぱいの振付が必ずしも良い振りではなく、その人の持ち味を生かす振付を踊るのがいいんだって証明してくれます。

「初級クラス」か「ゆっくり初級クラス」か、選択肢があった中で、ゆっくりクラスを選んだ生徒さんたちのクラスなので、無理のない振付にしました。

真佑子先生も、「だいぶ簡単になったので、ガロティンのノリや楽しさを伝えていきたい」と燃えております(#^.^#)

 

生徒に振付をする先生は、踊りのテクニックを教えたり、振付を教えたりするだけが仕事じゃない。

生徒をいかに演出するかも、その先生の腕の見せ所。

まだ歌も上手くない、デビューしたての芋くさいアイドルの卵が芸能界で売れっ子になるのは、演出してくれる人の手腕にかかってたりする。

本人の実力じゃない。

でも、そこで思い上がり、自分の実力だと思って演出してくれる人たちの元を飛び出したりする人もいる。

すると、途端に売れなくなる。

そんな話は芸能界ゴシップでよく聞く。

こういうのが、実はフラメンコだってある。

生徒の踊りを生かす振付をする人もいるし、自分が踊ってる振りをそのままくれるだけの人もいる。

私は、運のよいことに、私に似合う振り付けをしてくれる先生たちに習ってきた。
そこには、先生からの私への愛情を感じた。

だから私も、私の先生たちが私にして下さったように、敏腕マネージャーが芋っぽいアイドルの卵を一丁前のアイドルに仕上げるように、その人を生かす振りを生徒に作りたいといつでも思う。

特に、ソロで踊る生徒に対してはそう思う。

上手い人に難しい振りを上げ、上手く踊ってもらうことは簡単だ。

けど、そうでない生徒でも輝ける振りを付けることは簡単ではない。むしろ難しい。

けど、難しいからこそ、頭を使わなきゃならないからこそ、そこに挑戦したいと思ってます。

芋っぽいアイドルの卵のような生徒が、スターのように輝いて舞台で踊る姿こそが、私の喜びだったりします。

なので、いろいろなタイプの踊り手の舞台を毎晩見れるへレス・フェスティバルは、生徒に振付をする私にとっては、とても良いお勉強の場です。

 

María Pagés XXI Festival de Jerez from Festival de Jerez Televisión on Vimeo.

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