舞踊団公演3曲目:ソロンゴ

(03)舞踊団公演

ソロンゴ(ヘンリー8世最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン)

ヘンリー8世とスペイン王室から嫁いできた最初の妻・キャサリン・オブ・アラゴンの夫婦仲は良く、沢山の子宝に恵まれました。
しかしながら、キャサリンの産んだ子はほとんど育つことなく、育ったのは女の子1人だけ。
男児の後継者が欲しかったヘンリー8世は、世継ぎを設ける為、キャサリンの侍女だったアン・ブーリンに寵愛を向けるようになっていきました。

アン・ブーリンに夢中になったヘンリー8世は、アンと結婚する為にキャサリンと離婚を画策しますが、ローマ・カトリック教会は離婚を認めませんでした。
そこでヘンリー8世は、宗教上離婚を認めていないカトリックと決別し、プロテスタントをイングランド国教会にし、離婚が行えるようにしました。

スペイン王女であった誇り高きキャサリンは、その辺の新興貴族の娘・アンに王妃の座を追われたのでした。

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ヘンリーとキャサリンの間に起きたことを、歴史的事実でざっくり述べてしまうと上記のようになりますが、私たち舞台人は、舞台上でその役柄を演じる際、その役柄を掘り下げます。
どのように考えたのかとか、どんな人だったのかとか。

そこで、この舞台を作るにあたっての、私なりにキャサリンを考察してみました。

ヘンリーとキャサリンの間に起きたことは、ざっくり要約してしまうと、
『ヘンリーの寵愛が別の女に移り、キャサリンは夫の愛を失った』
ってことなんだと思います。

でも、私は思う。
ヘンリーの行動に対し、
「それでも彼は私を愛している」または、「私はもう彼に愛されていない」
のどちらを選択するかはキャサリンのお心次第だったのではないかと。

「へ????」って感じですよね。
でも、意外と、これ、男性の方が理解できるかも。
もうちょっと詳しく説明しましょう(^-^;

私には、キャサリンが「愛はそこにある」という方を選択できていたら、その後に次々と起こる悲劇は起こらなかったように思えます。

キャサリンの夫は、まがりなりにもイングランド国王。
「世継ぎを設ける」というのは、愛とは別のところに存在する問題。
いわば、彼の職業上の責任。
もちろん、愛する夫が他の女と閨を共にするのは嫉妬に苦しむことでしょう。
ただ、キャサリンは王妃様。
目の前の夫だけじゃなく、夫の双肩の上にいる国民も見ないとならない人。
ヘンリーが世継ぎ誕生の為に他の女に手を出すことが、「私はもう彼に愛されてない」をイコールにしなきゃならない立場ではなかった。
「妾から産まれてくる子供を私生児にする訳にいかないから、その子供の母親と結婚したい。だから離婚してくれ」
と言われたところで、それはヘンリーの愛がキャサリンから失われたことにはならない。
言葉のまんま。ヘンリーは嘘をついてないし、もうキャサリンを愛してないとも言ってない。
「キャサリンはもう男児を産めないだろうから、他の女に産ませる。その子を世継ぎにする。だからその子の母と結婚する」
と言っただけで、ヘンリーは国と国民への責任を負う男だったのだから、彼からしたら責任を全うしようと策を講じただけ。
この問題に、愛は関わってこない。
愛が関わってこない問題に、愛を持ち出したのはキャサリン。
そう、問題はヘンリーじゃない。
問題に昇格させてしまったのはキャサリン。

愛というのは、与えてもらうものじゃなく、与えるものだとよく言われますが、ここでも、キャサリンにヘンリーへの愛があれば、その後に起こる全ての問題は起きなかったのではないかと思う。
ヘンリーが双肩に負っている責任を理解し、ヘンリーの幸せを願って自らの身を引き、遠くからでもヘンリーを見守り応援できたとしたら、ヘンリーの愛はキャサリンから離れることはなく、それなりに大事にしたのではないかと思う。

「愛される」というのがそんなに重要視されることなのだろうかと私は思う。
大事なのは、愛されることじゃなく、愛することの方。
愛されていることに価値を見出してしまうと、相手の行動に一喜一憂することになる。
そして、その相手は神ではなく、欠点も弱点も多く抱えた人間。
その人に自分の価値を委ねてしまうことの危険なこと。

そして、「私を愛してくれるから彼を愛する」というのは条件付きの愛で、その愛というのは実は愛じゃなく、ただの執着。
これは、「愛してくれないなら愛さない」ということなので、「どこにあなたの愛はあるの?」って話。

愛されない私は価値がない。だから、愛されなくなったら、生きて行けない。
だから、相手の愛が自分から離れていかないように何とか繋ぎとめる。

これ、愛じゃない。執着。
執着も愛の一種だけど、純度というか透明度が低く、非常にドロドロと濁っている。

キャサリンがヘンリーに自分の価値基準を委ねることなく、キャサリンがキャサリン自身を価値あるものだと思えたら、愛されることに執着しないで済んだし、愛されるという他人任せのことに振り回れることなく、いつでも自分を幸せな状態にしてあげれた。

この後出てくる、2番目の妻アン・ブーリン、3番目の妻に出てくるジェーン・シーモア、キャサリンの娘メアリー一世、スコットランド女王メアリー・スチュアート、皆、自分を幸せにしないようなところに価値基準を持っているように、私には思える。
というより、自分で価値基準を持たずに、大事なそれを他人に委ねている。
自分があるようでない。
だから、自滅していく。
このドロドロした人間臭さが、すごいフラメンコっぽいなって思う。

自分を幸せにするも、不幸にするも、やっぱり、自分の気の持ちようだなって、つくづく思う。
相手の男は関係ない。
それが王様であっても、今を生きる私たちの側にいる男性たちであっても。

例えば、私が誰かに、「ブス」と言われようと、「可愛い!」と言われようと、私の価値は変わらない。
1カラットのダイヤを見て、「ただの石ころ」と思う人もいれば、「超倹約生活を送ってでも手にいれたい程価値のあるもの!」って思う人もいる。
でも、そのダイヤの輝きや大きさは、相手の判断次第で変わらない。
それなのに、「ブス」って言われれば落ち込み、「可愛い!」と言われれば浮かれてしまう。
そもそも、それを言ったその人に判断できるだけの審美眼と人間性があるのかってのを良く見ることなく、言葉だけを鵜呑みにしてしまう。
「どうしてブスだと思うの?」と問いただせば、その人にも意見がある訳でもなく、
「皆が言ってるから」って程度のものだったりする。
「その皆とは誰なの?」と問いただせば、誰ってのが出てこない。

他人に自分の価値を委ねることって、意味がないのに、すごく自分の心を揺さぶられるから疲れる。
だから、止めた方がいい。

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キャサリンは、「可哀想な人」って見られたくなかったのかもしれません。
「恵まれた幸せな人」と皆に憧れられる存在でいたくて、「夫に棄てられた惨めな王妃」という同情の目、それも自分が見下している身分の人たちに思われたくなかった。

どれも、他人を通してみた自分。

でも、キャサリンは、「可哀想な王妃」と見られたくないという想いがあった一方で、「可哀想な王妃」というのを武器にもした。

とことんまで、他人の目を気にした人だったんだなって思う。

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「私を抱きしめるあなたの腕以外に価値はない」
という歌詞のソロンゴ。

舞台の上ではドラマチックでいいけれども、現実の世界ではそういう執着はしない方が幸せになれると、私は思うのでした。

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