自分らしく生きる、自分らしく踊る

(01)諸々

「ジェンダー差別をなくそう」と男女を同じに扱うことが良しとされる昨今ですね。

でも、男の子も女の子も子育てしたことのあるお母さんは良くご存知かと思いますが、男の子と女の子って身体つきだけじゃなく、色々なものが全然違くないですか?

お教室を始め、女性の生徒さんと関わることで、「女の子には女の子の子育てがあり、そこを配慮していかないとならないな」とヒシヒシと感じます。

一番でなくていいから皆と同じがいい女の子

当然ながらこの手の話は全員には当てはまらないです。

でも一般的に男の子は、お山の頂上を目指す気がします。

「俺には無理」と諦めたが故に目指してないように見える人は多いですが、本来の性質として、「他の人より抜きんでたい」というのがあるように見受けます。

ところが女の子は、「一番でなくていい。特別扱いでなくていい。でも、人並みかそれ以上でいたい。落ちこぼれたくない。人に迷惑かけたくない。足並み揃えたい。惨めな想いしたくない。皆と同じに扱って欲しい」と思いがちです。

誰かがチヤホヤされているのを見た時に、モヤモヤってするのは、その子より上に行きたいからじゃなく、その子も自分も含め、「皆を同じに扱って欲しい」って想いがあるからなんですね。

でも、これが明らかに特性の違いで特別扱いされている人に対しては思いません。

「子供」「お年寄り」「男性」はそもそもの土俵が違うので、モヤモヤが発生しません。

同じような属性の人に対して発生します。

他人と比較するから

でも、このモヤモヤって、そもそもが他人と自分を比較しないと発生しないものです。

他人と自分を比較し、自分の中にないと思っている素敵なところを相手に見て苦しくなるんです。

「自分らしく生きたい!!!!」

と・こ・ろ・が、実はこれ、もっと深いところまで掘っていくと、自分より優れた人への嫉妬とかやっかみかと思いきやそうじゃありません。

「自分らしく生きたい」と心の奥底に眠る本当の自分が叫んでいる心の声です。

誰かと自分を比べ、自分にない素敵なものを相手に見つけ、それを自分も得ようとするってことは、自分が自分らしくなくなるってことです。

「皆がやってることを、自分もできるようになろう」ってのは、没個性人間を製造する魔法の言葉です。

そう思い込まされることで、職場や学校で、子供の頃から自分をドンドン『自分以外の何か』に変えてきてしまいました。

でも、そんなの楽しくないじゃない。

心が焦燥します。

誰かと比べるとどっちが上、どっちが下って気になる。

でも、そうじゃない。

どの人も自分らしく生きれば、どの人も違うから、そもそもが比べようがない。

比べなければ上下がなくなる。

あるのは個性。

もし、私たちがこの世に生まれてきた意味や目的、理由があるとしたら、それは他人と自分を比べ、人よりも上に行くことじゃない。

自分らしさを際立たせる為。

少なくとも芸術分野はそういうもの。

男性はどうかは知らないけど、女性は本来、他人と競わない。

男性が競争社会で生き残る為、封印してしまった感情や感性を女性は活かし、自分らしさを追求するのが女性という性。

でも、ここ昨今は男女平等の名の元、女性が男性化している。

女性が男性と同じように振る舞うことで男性社会に迎合することが男女平等のようです。

でも、これをすると本来の私たちは苦しくなります。

自分らしくいられないから、「自分らしくありたい!!!」と心が悲鳴を上げます。

「誰かと競争したくない。誰かを蹴落としたくない。そうじゃなくて、自分らしくありたい」と絶叫しています。

だから、お稽古で、芸術分野で、本来の自分を取り戻し、それを表に出していきましょう。

鎖を掛けられた自分を鎖から解き放ち、大きく手足を伸ばしましょう。

そうしたら、自分に感情・感性が戻ってきて、自然と表情のある人に戻れます。

人との違いを優劣で見ず、自分らしさを追求し、個性という名の自分の花を咲かせ、誇らしく顔を上げ、満面の笑みで微笑んでいよう。

舞台で花開く人は、自分らしくある自分を誇らしく思ってる人です

あなたたちが、あなたたちだから美しい。

同じ先生に

同じお稽古をつけてもらい

同じ振付を習い

同じように踊っても

これだけ人と人は異なる。

優劣があるとしたら、「自分らしくいられるか」の程度の差。

自分らしさが出ている人は素敵です。

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