【舞踊団公演】シギリージャ・泣いても笑っても自分で選んだ道
舞踊団公演の最後の演目はシギリージャです。
龍介との不倫、伝右衛門との別れ、新聞への絶縁状掲載、議員である兄の引責辞任。
そんな騒動を起こした白蓮は、兄によって実家に連れ戻され、約2年の間龍介と会うことができず、実家に幽閉されたり、兄の監視の元、京都の寺などを転々としました。
生き甲斐だった議員を辞職し、抜け殻になった兄は、「俺も死ぬから、お前も一緒に死のう」と喚き、
兄の依頼した宗教がらみの人たちからは、「罪を悔い改め、尼になりなさい」と迫られ、
監視の目をくぐって、障子の切れ端に「助けて」と書いて、龍介に送っても、龍介からの返事はなく、
更には、生まれてくる子供を、伊藤家(伝右衛門)が引き取ることに決まったと告げられ、
白蓮は追い込まれ、生きる希望を失い、龍介への手紙は、「死にたい」に変わります。
けれども、龍介からの返事は届きませんでした。
シギリージャは、『絶望』『嘆き』を表現すると言われています。
正に、白蓮、絶望です。
そんな中、
明日にでも死のうと考えていた白蓮でしたが、ついに、龍介との子供が生まれました。
最初の夫との間にできた子供は、離婚する際に夫に取り上げられてしまいました。
当時の貴族の慣わしとして、子供は乳母によって育てられたので、白蓮がお乳をあげることはありませんでしたし、男の子だったので、後継ぎとして婚家に置いてこなければなりませんでした。
それに当時、白蓮はまだ15、6でした。
周囲の言うままに従い、それを何も考えずに受け入れていました。
ところが、中年になってからできた龍介との子は、自分で育てることになります。
実家が経済的に苦しく、乳母を付ける余裕がなかったのでした。
お乳をごくごくと飲む我が子を腕に抱き、白蓮は生き返ります。
「生き抜こう。龍介が死んだとしても、何としてでも生き抜いてみせる。この子を誰にも渡さない。
世間の人が石をぶつけてきても、この子は守ってみせる」
白蓮は再び、自分の足で立ちあがりました。
味方もなく、自由を奪われた孤独の2年は、大層長かったと思います。
気が狂ってもおかしくない。
でも、白蓮は正気を取り戻します。
その後、龍介と再会し、共に暮らすようになりますが、義父の借金や龍介の病気などで経済的にも困窮したり、子供を戦争で亡くしたり、白蓮の晩年は、かなりきつかったようです。
私には、晩年の白蓮の困難は、伝右衛門にした仕打ちの因果応報のように思えてなりません。
恩をかけてくれた人に対する態度を誤れば、人は報いを受けるようにできてる。
白蓮は白蓮のしでかしかしたことの精算を、後半の人生で行ったように思えます。
経済的な苦境に立たされて初めて、白蓮は伝右衛門に感謝した筈。
人は痛い目を見ないと気付けないこともある。
人は痛い目を見ないと変われないことはある。
そんなダメダメな白蓮ですが、伝右衛門の元を去り、龍介と暮らすと自分で決めたことなので、自分の不幸な境遇を誰かのせいにすることなく、自らの力で乗り越えようとしたのは立派で、私はそこに共感します。
龍介に対しては、
「大富豪の伝右衛門から私を奪ったんだから、もっと頑張ってよ!この甲斐性なし!役立たず!」
と罵りたくなったことでしょう。
「こんなことなら、伝右衛門の元にいて、武子のように秘密の恋人を持ち、上手く遊びながら、表面的に淑女を装ってれば良かったかも」
という想いが頭をよぎった日もあったことでしょう。
でも、白蓮は、「龍介と一緒になれて、私は幸せだった」と言いました。
私には、それは半分本音で、半分去勢に思えます。
「自分で選んだことだから、文句言えない」
白蓮はそう思ったのでしょう。
龍介を否定してしまえば、それは自分の選択を否定することになる。
それに、己の馬鹿さ加減よりも、自分で選んだことなのに、いつまでも未練たらしくグチグチ言ってるのって、一番みっともないじゃない。
「馬鹿なのは仕方ないけど、せめて潔くいよう」
と高楊枝を咥え、やせ我慢しながら、
「私は幸せよ」
と言ってのける白蓮が私は好きです。
最初は、白蓮のドラマチックな恋愛事情を描こうと思ってましたが、白蓮を掘り下げるうちに、龍介との恋って、なんか薄っぺらいと思うようになりました。
龍介は、白蓮が自分の人生を歩く為のきっかけに過ぎない。
人は生きているだけで罪を犯す。
そのつもりがなくても、人を傷つけることがある。
けれども、その報いは形を変え、必ず自分のところに返ってくる。
その精算は、自分でしないとならない。
「人生は自分との闘いだな…」とこの舞台を作りながら日々思いました。
ソレアは、過去に起こったことを憂いて、今の自分を可哀想に思い、悲しんでいる感じ。
同じように暗く、重いヌメロのシギリージャは、現在起きていることに立ち向かい、闘っている感じ。
舞台は、過去を憂いて悲しむソレアで始まり、
今と闘うシギリージャで終わります。
フラメンコは生身の人間の心情を表すのに適した音楽であり、踊りだと私は思っています。
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