2月5日(土)浅草橋「ラ・バリーカ」

(01)諸々

この前のブログで申した企画の第一弾です。

第一回目は梓ちゃん!

梓ちゃんは、ソレアとグワヒーラを踊ります。
水曜クラスで習ったソレアと、日曜バタクラスで習ったグワヒーラです。

ドミンゴは、ファルーカとアレグリアスを踊ります。
この前の公演用に仕上げたファルーカと、今、個人レッスンでアレグリアスの振りを作っていて、それが仕上がればアレグリアスを踊る予定でいます。
多分、仕上がることでしょう。
私はシギリージャとタラントの予定。

皆様、お時間の都合が付くようでしたら、是非見にいらして下さい。
ご予約は、お店でも、出演者の誰でも構いません。
よろしくお願いいたします。

「できる」か「できない」かで言ったら、「できる」という理由でエンサージョをやらないというのは、私には『やっつけ仕事』に感じられます。
「できるけど、もっと良いものを作りたい。自分を向上させたい!」と思ったら、エンサージョは必要だと思ってます。
事前の合わせをし、丁寧に準備したものは皆の息が合ってくるし、質も高くなる。

コンパスずれずれであろうと、変な踊りをしてようと、構成に無理があろうと、本番当日の合わせだけでは、バックアーテイストからのアドバイスなんてもらえません。
「大丈夫。合わせられる」とバックアーティストが言う時、それは、「踊りが大丈夫(問題ない)」という意味でないことも多いです。
「踊りが大丈夫ではないけど、僕、私、大丈夫。その変な踊りに対応できるだけの技量あるから」という意味だったりもする。

「丁寧に、真摯に芸を磨いていきたい。精進しよう!」と思ったら、事前エンサージョはやった方がいい。
ギターも、カンテも、パーカッションも、バイレも、皆、練習する。
そして、それぞれの練習したものを皆で持ち寄る。

練習もしないで舞台に上がり、中途半端なテキトーなことを繰り返せば、お客様にそっぽ向かれます。

技量の良し悪しではなく、中途半端でテキトーなことをしてると人間としての評価を下げます。
例え、その人の技量が高くても。
逆に、その人の技量が高くなくても、一生懸命に真摯に取り組んだのが見て取れれば、周囲の人たちはその人のその後を期待し、応援する。
「この位できてればいいでしょ」と過去の遺産で勝負する人ではなく、「既にもうこんなにできるのに、まだ努力してるのか!」と精進し続ける人に人は惹かれる。

中途半端でテキトーな人は、自分が中途半端でテキトーな人にも関わらず、同じような中途半端でテキトーな人とは一緒にいたくない。
できたら、真摯に取り組み、きちんと責任をもって行動する人と一緒にいたい。
前を向き、真摯に一歩一歩、真っ直ぐに歩む人と一緒にいることで、その人に引っ張り上げてもらえたら、自分も中途半端でテキトーな人に見えず、すごい人に見えるかも!と思えたりする。
でも、残念なことに、きちんとした責任感のある人は、中途半端でテキトーな人とは行動しない。
そういう人と何かを作り上げるのは大変だし、やったとしても、できることが限られるというのを知っているから。
真摯に取り組み、行動する人は、同じように真摯に取り組み、行動する人と一緒にいたい。
となると、残念だけど、中途半端でテキトーな人は、中途半端でテキトーな人としか一緒にいられなくなる。

前を向き、言い訳する間もなく行動してる人と一緒にいたければ、自分も同じようでいなくてはならない。
人は自分と同じような人としか縁を結べないようにできている。
だから、私が尊敬する人たちが、私と一緒にいてくれる為にも、私も頑張ろうと思ってます。

ちなみに、尊敬する人というのは、私の先を歩く人たちだけではありません。
生徒さんの中には、尊敬する人は沢山います。
生徒は、たまたま、私より『踊り』を後に始めただけ。
何かの事柄に向かい、地に足を付け、一歩一歩着実に歩みを進める努力家は生徒さんの中にも沢山いて、私はそういう人たちのことは尊敬します。
まともな生徒たちは、私が中途半端でテキトーなことをすれば、きっと去って行くでしょう。
人は、上の人に認めてもらおうと頑張りがちですが、自分のことを良く見ているのは、上の人ではなく自分の下の子です。
生徒たちは、この世界では「素人」だとか、「練習生」だとか、そんな言われ方して、下っ端の扱いをされますが、この業界で名を馳せてる人であろうと、チヤホヤされてる人であろうと、なんであろうと、実のところ、生徒にとっては関係ないんですね。
だからこそ、プロの人たちがやることやらないで中途半端でテキトーなことをすれば、
「普通の世界ではあんなの通用しない」と真顔で言ってのけます。
本当に良く見てます。
生徒たちに見捨てられないように、ちゃんと真っ直ぐ、頑張ろうと思います(^-^;

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