Siguiriyas de la Niña de los Peines
鼻歌でも歌えるからこそ踊れる
例えば、ガロティンとかアレグリアスとかファンダンゴって、カンテクラスで歌を習わないでも、レッスンで先生が歌っているのを聞いてるだけでも、発表会で歌ってくれるカンテさんの歌を聞いてるだけでも、なーんとなく、鼻歌程度は歌えるようになるじゃないですか。
「アーイ、ガアロティン」
「ティリティ タタンターン」
「アロンノー カジェ レアーーー」
「トリアーナ、トリアーナ、ケ ボニータ エッタ トリアーナ」
みたいな感じで。
ちゃんとコンパスに入れて一人で歌えるかは別として、何となく口ずさめる。
でも、これが、ソレアとかシギリージャとなるとちょっと話は違ってくる。
特にシギリージャ。
難しい。
私は、口三味線であっても、レトラでなく、るるるるーって感じであっても、歌えるものじゃないと本当の意味では踊れないんだろうなって感じています。
さて、そんな私ですが、シギリージャが好き。
あの、血を吐きながら、歯を食いしばって、両足で踏ん張って、満身創痍で現実に立ち向かう感じが好きなんです。
ということで、聞いただけで何となく歌えないシギリージャなので、歌詞カードを見ながら、CD流しながら、CDの中のカンテさんんと一緒に鼻歌を歌ってみているのですが、難しい。
鼻歌すら歌えない。
前半
シギリージャの歌は、前半、後半の2パートに分かれます。
Ya llegó la hora
La horita llegó
「時が来た
その時がやってきた」
前半は、たったこれだけの歌詞を手を変え、品を変え、以下のようにずっと歌ってます。
アアーーーーイイイ(あああああああ)
ジャ ジェゴ オラ(ついにその時がやって来た)
アアアアーオラ(ああああ、その時が)
ア マレー (あああ、母さん)
ラ オリータ アーーー ジェゴ(その時が来ちゃったよ)
イ アビア ジェガ アーー オラ(その時が来た)
ラ オラ(その時が)
アーー マーーレ(母さん)
オリータ ア ジョゴ(その時が来ちゃった)
「くどい!その時ってなんだよ。早く言え!」
とツッコミを入れたくなるような、悶えながら延々と同じことを歌ってます。
後半
そして後半に、
que me apartaran
de la vera a tuya
sin apelación
「僕は彼女から引き離される
訴えることもなく」
と歌っています。
え、チェッカーズ????
チェッカーズの歌詞が私の頭をよぎりました。
「恋したあの子と二人して
街を出ようと決めたのさ
駅のホームでつかまって
力まかせに殴られた」
日本語だと情景が浮かびますね。
娘の父親かなんかに引き離されて、
男の子は殴られちゃったんでしょうね。
「分かってくれとは言わないが
そんなに俺が悪いのか」
とチェッカーズの歌詞は続きます。
シギリージャの中の彼も、そんな気持ちだったのかもしれませんね。
古今東西、男女がいて、恋に落ちる話はどこにでもある。
けれど、昔は身分の違いとかで、愛し合っていても結ばれなかった恋も多かった筈。
「昔は良かった」と戦後生まれの昭和のオヤジたちが言うけれど、本当だろか。
私は今の方が全然いいと思います。
かつて、職場や家庭の食卓では、当たり前のようにタバコを吸ってる人がいました。
受動喫煙なんて言葉のない時代で、子供がいても平気で大人たちは吸ってました。
駅のホームでもタバコの吸い殻が落ちてたし、
週の後半になれば吐しゃ物が落ちてたり、
会社のオジサンの中には、女性社員のお尻を触る人は普通にいたし、
親も教師も子供を殴ったし、
今の日本ではあり得ないことが普通でした。
100年も前の身分制度による差別も、
宗教による差別も、
国籍による差別も、
仕事による差別も、
学歴による差別も、
そして、はっきりしないけど何となくの差別もいっぱいありました。
でも、本当に誰かを愛する時に、私たち人間はその人のスペックなんかどうでも良くなる。
ハートで感じる。
「ああ、この人だ」って。
私たち世代は、前の世代が「あの時代は良かった」というのを、「ちっとも良くないよ。どこがだよ」と壊しに生まれてきました。
前の世代の人たちが、「これは良い」「これは悪い」と決めた基準に沿って生きることを止め、自分の心が感じるものを信じる為に生まれてきました。
私はこのシギリージャの後日談を知りたい。
「引き離された」と慟哭で終わるのがソレアなら、
そこで終わらずに「負けるもんか!」と闘うのがシギリージャな感じがするから。
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